【掌中の珠 最終章 5】   




雨の中孟徳軍を辞し玄徳軍の陣営に戻っていた子龍は、川沿いを警護させていた自軍が騒がしいのに気づいた。
孟徳からの返事は一刻も早く玄徳に届ける必要がある。だが、自軍になにかあったのならその対処も迅速に行う必要がある。
子龍は一瞬迷ったが、足を返して兵士たちが騒いでいる方へと向かった。
冷たい雨はだいぶ弱くはなったがまだ降っており、夜をさらに暗く陰鬱にしている。
近づくにつれ状況が見えてきた。馬の死骸に折れた材木。道具入れや何かが入っていたらしき袋。増水した川に落ちた馬車が流されてきたのだろう。だがあの軸の長さは……
「軍用の馬車か。われらの軍か?負傷者は?」
場所から考えて川岸に陣を張っていたところに増水があったにちがいない。そう思い人をかき分け責任者を探そうとして、子龍は同じくぐっしょり濡れてあちこち破れている布を見つけた。たっぷりと尺をとった豪勢な、朱色の布だ。玄徳軍のものではない。
「孟徳殿の軍のものか?」
ならば扱いに注意しなくては、両軍の争いの火種になりかねない。子龍は「責任者はどこだ!」と厳しく声を上げた。
「子龍殿、こちらです!」
馬車の残骸の向こう、ごうごうとうなる川岸のすぐそばにできていた人垣のなかから、子龍も知っている兵士長が声を上げた。それをきっかけに人垣が割れ、子龍は小走りにそちらへ向かった。
「生存者はいたか?丁重に手当を……」
言いかけた子龍の言葉は止まった。女性だ。着ているものはどろどろに汚れ、裂けてはいるが最高級の絹でかなりの身分だ。髪と泥で、この暗さの中この距離では顔は見えない。
「半刻ほど前に上流の方で地鳴りが聞こえました。孟徳軍が行軍しているあたりです。おそらく地すべりが起き、そこで軍列から土砂で川に押し流されたものと思われます」
ビシッと背筋を伸ばし報告する兵士長に、子龍はうなずいた。
「よく助けた。生きてるのか?」
雨に濡れながらうなずく兵士長に子龍もうなずき返した。「孟徳殿のことだ、戦場に女性を連れてきたのだろう。早く雨に濡れないところに移動させて温めて差し上げろ」
「はっ!おい!はやく絡んでいるのをほどけ!」「ははっ!」
兵士長が川沿いにいる5人ほどの屈強な兵士にどなる。何が絡んでいるのかと子龍がもう少し近づくと、暗闇の中から黒光りする太い鎖を見つけた。女性の足から川の中へと入っている。
「おそらく流木か何かに鎖が絡みそれが川底の石につっかえてこの女性も流されずにすんだようです」
兵士の報告を聞きながら子龍はぞっとした。女性を鎖につなぐとは。しかもこんな行軍で。玄徳軍ではあり得ない所業だ。しかしそれが功を奏して助かったようだ。
「他の生存者は?」
兵士長は雨でぬれた顔を横に振った。「この暗さとこの増水とでほとんどのものが流されてしまっています。この女性だけ鎖がひっかかったおかげでなんとか救出できました」
子龍は女性の細い足首で黒光りしている鎖を見た。
「いったいなぜ…」
女隠密などだったのだろうか、と女性の顔を見ようとして子龍はハッとした。
見たことのあるどこか幼い顔。血の気がまったくなく目の周りが落ちくぼみ、額から耳のわきへのびる深い傷からの血が顔の半分を赤く染めている。
「……花殿……」

「どういうこと!?どうして花が…!鎖ってどういうことよ!!?」
玄徳の本陣で芙蓉が狂ったように子龍に詰め寄っている中、鍛冶の手練れがよばれ花の足を傷つけないよう慎重に鎖をはずす作業が続けられていた。玄徳はちょうど軍議にでていたため不在で、子龍は急ぎ行軍に参加していた芙蓉を呼んだのだ。女性同士ということで花の看病もてきぱきと勧めてくれるに違いないと思ったのだが、子龍の思い違いだった。
花をかわいがっていた芙蓉は、傷つき血を流し雨で冷え切り足に鎖をつけられた花を見て我を失ってしまったのだ。
「私も帰りがけに騒ぎに気付いただけで詳細は不明です」
「でも孟徳に会いに行ってたんでしょ!?花の話とかでなかったの!?」
「いえ、まったく。行軍に連れてきていることも知りませんでしたし、花殿の話も一切出ませんでした」
「じゃあなんでよ?なんでこんな……ぼろきれを捨てるみたいに……!」
子龍はその言葉に顔をしかめた。
興奮している芙蓉に付き合う気はないが、まさにそうだ。子龍も含め玄徳たちが大事にしていたものを目の前で雑に捨てられた気分だ。
「…地すべりが起きたようだとの報告を受けております。それゆえ、捨てる意思をもって捨てたのではなく事故ではないかと思いますが…」
子龍が極力感情を荒げないようにそういうと、芙蓉は途中で遮った。
「じゃあ、あの足の鎖は何よ!?大事にしてるから鎖につないでるとでも!?」
子龍だって同じ気持ちだ。だが我を失っている芙蓉に理不尽にも子龍は詰め寄られていた。
「とれました!」
鍛冶たちの声が聞こえ同時にジャラッと重い鉄が重なって落ちる音がした。
「花!」
「すぐに湯をわかせ!火をどんどん炊いて温かくするんだ。温かい着替えと布団と医師と……、あと、玄徳殿にも伝えるように」
芙蓉が役に立たないので、子龍がてきぱきと命じる。花の意識がないので温かい湯につかってもらうのは無理だろう。だが冷え切っている花を温めなくては助かった命も助からなくなる。
ありったけの薪で部屋を暖め、ぬれた服を着替えさせ毛皮でくるんだところで、玄徳の声が外から聞こえた。
「花だって?」
天幕の入口から玄徳があわただしく入ってきた。青ざめた顔で、炎に明るく照らされた天幕の中を見渡す。そして寝台の上に寝かされている花を見つけ言葉を失った。
乾いた布にくるまれて、花はとても小さく、このまま消えてしまいそうに見えた。額の傷からはまだじわじわと血がでているようで、応急処置をした白い布を赤く染めている。玄徳が足を見ると、細い足首にはえぐれるような大きな傷が丸くついていた。
玄徳は外された鎖とじっと見ると、花の頭をそっとなでた。
「早くあたためてやってくれ。医師と薬師を呼んでみてもらうんだ」
「はっ!」天幕の入り口にいた兵士が出ていくと、玄徳は厳しい顔で子龍を見た。「報告してくれ」

医師の診断は悲観的なものだった。
この土砂崩れに巻き込まれる事故の前からかなり衰弱しておりこのような行軍に来れる身体ではなかったと言われ、玄徳の瞳は暗く光った。芙蓉は息を吸い込み怒りで顔を赤くする。
「大切にするとあの時言っていたじゃないの…!」
許都で花から孟徳を紹介されたときのことだ。あの時の、頬を赤らめ幸せそうに笑っていいた花を思い出すと、今目の前の生死も危うい花との違いがまざまざと見せつけられる。
「とりあえず温かくして今夜を耐えられれば何とかなるかとは思いますが、何分この身体では……」
言葉を濁す医者に芙蓉が聞いた。
「意識はいつ戻るのでしょうか?」
医師は無言で首をふる。玄徳が「ご苦労だったな、もう休んでくれ。また何かあれば呼ぶ」というと、医師は天幕から出て行った。
花は温かい布で幾重にもまかれ、湯たんぽをいくつも入れられた寝台の上に横たわっている。心なしか表情が安らかになっているような気もするが、顔色はまるで死人のようにまだ真っ白だった。火を盛大におこしているおかげで天幕の中は明るく温かい。子龍が花を見つけたのも夜が遅い時間で、そこからかなりの時間がたち、玄徳と芙蓉にも疲労が重くのしかかっていた。
「芙蓉ももう休め。俺が様子をみている」玄徳がそういうと芙蓉は首を横に振った。
「玄徳様こそ休んでください。明日、曹孟徳と会うのでしょう?」
子龍の報告で明日の正午、山のふもとで孟徳と会うことになっているのを芙蓉は聞いていた。大事な会談だ。寝ぼけ眼ではいけない。
「……」
玄徳は黙ったまま炎を見つめていた。孟徳との会談について考えているのだろうか。魏と蜀の今後についてや三国の未来、漢王朝の行く末などについて話し合うのだろうけれど…
「……花のこと、お話になるのですか?」
孟徳に花を救ったと言うのだろうか。当然返せと言われるだろう。足を鎖でつなぐような場所へ返せるわけもない。だが孟徳もさがしているだろう。蜀にいても孟徳が花に夢中で、各地にいた妾をすべて家に帰したという話は聞いている。大切にはしていないが執着はしているのだったら、ここに花がいることを黙っていることは、今後の蜀と魏との間のおおきな禍根になりうる。
「……とりあえず明日の朝、だな。花の容体を見てまた考えよう」玄徳はそういうと、天幕の端にあった移動用の簡易寝台をひきずってきた。「ほら芙蓉もどうせ心配で自分の天幕には帰れんだろう。もう一つあるから持ってこい。ここで花と一緒に寝よう。花も安定しているようだし、もう朝も近いが少しは眠れるだろう」
芙蓉は玄徳を見上げる。そして少しためらってから言った。
「私などが口をだすことではないことは重々承知してますが……」
芙蓉は花を見る。「花がここにいることは曹孟徳には言わないでほしいと思っています。花は……花はもう魏には帰さない。ここで暮らす方が幸せだって」
芙蓉は唇をかみ、涙をこらえた。
「こんな……こんな目にあって、一人でまた魏になんか……」
ぽろぽろと涙をこぼす芙蓉の肩を、玄徳は優しくポンとたたいた。
「……そうだな」



 












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